本の背骨が最後に残る
「もしも、人間が自らの命を削って本を記すとしたら」
斜線堂有紀の短編集『本の背骨が最後に残る』は、あまりに美しく、あまりに凄惨な設定から幕を開ける。表題作の舞台となるのは、文字を持たない代わりに、自らの骨に生きた証を刻み、死後にそれを1冊の「本」として遺す「骨書(ほねがき)」の風習がある世界だ。
私たちが普段、何気なくスマートフォンで消費し、紙に書き連ねている言葉。それらがもし、自分の肋骨や背骨を削らなければ生み出せないものだとしたら、私たちは一体何を書くでしょうか。本作に漂うのは、圧倒的な「痛みの感覚」だ。文字を刻むたびに襲う激痛、そして死。文字通り命を捧げて作られる本は、単なる情報の記録媒体ではない。その人間の生きた時間、情念、そして業そのものだ。
人はなぜ、そこまでして何かを遺そうとするのか。本書を読み進めるうちに、読者はその根源的な問いに直面せざるを得ない。作中の登場人物たちは、決して幸福な環境でペンを執るわけではない。むしろ、誰かに裏切られ、絶望し、あるいは狂気的な愛に突き動かされながら、自らの骨を削っていく。そこまでして紡がれた言葉には、綺麗事ではない剥き出しの人間味が宿っている。だからこそ、読者は彼らの物語に、文字通り「骨抜き」にされてしまうのだ。
タイトルの通り、肉体が滅び、すべてが灰になっても、最後に残るのは「本の背骨」だ。それは、人が生きた最後の証明であり、誰かに何かを伝えたかったという「祈り」の形でもある。現代の私たちは、溢れるほどの言葉に囲まれて生きている。簡単に発せられ、簡単に消えていく言葉の海の中で、本書は「言葉の重み」を文字通り物理的な質量として突きつけてくる。
本書に収められた物語たちは、残酷で、時に息が詰まるほど切ない。しかし同時に、人間が持つ「表現したい」という執念への、最大級の賛歌でもあると感じる。読み終えた後、自分の背中にそっと手を当ててみる。私の背骨には、一体どんな言葉が刻まれているのだろうか。そして、私は死ぬまでに、誰の心に届く本を遺せるのだろうか。本を愛するすべての人に、そして言葉という不確かなものに救われ、時に傷ついてきたすべての人に、痛みを堪えてでもめくってほしい、至高の結晶である。
photo & text by TOHKO
派手な髪色と、個性的なネイルと、バンギャと間違われるメイクアップをしているくせに、「ただ派手なだけの真面目っ子」と言われて、嬉しいような悔しいような。来世は、蜷川実花の生み出す世界観で生きられたらいいな。
瞳子(TOHKO)
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